top of page

聖書同盟の歩み

<働きの始まり>

 イギリスのロンドンで1867年にCSSM(児童特別伝道協会)という、子どものための働きから活動がスタートしました。

 ジョサイア・スパイアズという人が、教会に来ている子どもたちがただ親に連れられて来ているだけという状況を見て、「子どもたちがイエス様の話や聖書にある話を本当に理解したら、もっと生き生きとした信仰を持つことができる」というビジョンを持ってこの働きを始め、短期間でイギリス全土に広がりました。

ジョサイア・スパイアズ.jpg

CSSMは元々とても素朴な働きで、例えば海岸(ビーチ)伝道などを行っていました。海岸に遊びに来ている子どもたちを集めて、砂に「JESUS」というアルファベットを書き「この文字を貝殻や石で飾ってごらん」と持ち掛けます。子どもたちは喜んで遊びに参加し、飾り終えたところで「イエス様はね…」と語り始める、とこんな様子でした。

ビーチ伝道するジョサイア・スパイアズ.jpg

 この素朴な子どもたちのための働きが、どのようにして聖書通読運動へとつながっていったかというと、アニー・マーストンという小学校の教師でもあった一人の熱心な姉妹が、子どもたちの信仰成長のためには聖書を毎日読むことが必要だと考え、毎週日曜日に、翌日から読む一週間分の聖書通読箇所を子どもたちに手渡していました。ですが、次第にそれが大変になってきて、CSSMに子どもたちのための聖書通読表を作ってくれないかと協力を要請をしたのです。次第に彼女の熱意が伝わって、1878年CSSMの中に、スクリプチャー・ユニオン(Scripture Union)という部門を結成したのです。そして子どもたちのために毎日の通読箇所を書いた聖書通読表を発行したのです。


 そして1887年には解説書付きの聖書通読表を発行しはじめました。さらに、聖書通読の必要は子どもだけではないということで、『デイリーブレッド』という通読誌を発行し、この働きが世界に広がっていきました。

アニー・マーストン.jpg
<日本での働きの始まり>

 アジアの中で最も早く働きが伝わったのは日本でした。アメリカ人のアデレイデ・ホイットニーという16歳の少女が、ロンドン滞在中にスクリプチャー・ユニオンの働きに接しました。
その後家族で来日するのですが、ホイットニーは「ぜひ日本の教会にこのスクリプチャー・ユニオンの働きを紹介したい」という思いを持ちつつ、津田仙(つだ・せん)という方とコンタクトを取りました。この津田仙は津田梅子の父で、津田塾大学の創立者です。
 そうして、ホイットニーは日本人指導者たちの協力を得て、「聖書之友(せいしょのとも)」という会を発足しました。それが1883年(明治16年)のことです。

 聖書之友ではまず聖書通読計画表を発行し、そのあと解説付きの通読書を発行するようになりました。日本でも初めての聖書通読運動でした。

アデレイデ・ホイットニー.jpg

 この働きは教派を超えて、明治・大正・昭和と広がりました。多いときは日本国内で800の支部と、2万人の会員が与えられたそうです。
 そして1922年から聖書之友少年部というものも誕生しました。初等科・中等科・高等科という聖書日課を発行して、子どもたちが日々聖書に親しむための活動を続けたということでした。子どもたちには当時の文語訳聖書は難解であったかもしれませんが、郵送でテキストを添削をして、信仰を励ますような働きもしていたそうです。

しかし残念ながら戦時中の紙不足や、政府によるキリスト教の弾圧によって、1943年の6月号をもって、聖書之友の活動は中止をせざるを得なくなりました。

<聖書同盟として再スタート>

 敗戦後の1954年、聖書同盟として働きが再スタートします。終戦後のキリスト教ブームや、また戦時下のクリスチャンの信仰に対する反省が背景にありました。クリスチャンがしっかりと聖書のみことばにつながっていく必要がある、牧師に頼った信仰ではなく、一人ひとりの信仰者が自立した信仰を持つ必要があると知らされ、それが働きを始める力となったと思います。

 初代の舟喜順一総主事をはじめとする、発起人となった当時の教会の指導者たちは、イギリスのスクリプチャーユニオンと再度連絡を取りました。1954年に聖書同盟という名称で新たな働きをスタートし、準備を始めて、1955年の1月から聖書通読誌「みことばの光」の発行を開始しました。
 それ以来、主のあわれみによって途切れることなく、現在では毎月発行されています。

bottom of page