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バイブル・エンゲージメント

―みことば生活への招き―

 昨年の 10 月、私は東京の永福南キリスト教会(日本福音キリスト教会連合)の一日リトリートの講師の一人として、午前中の講義を担当しました。午後の時間は、今月号の「ひろば」に登場しておられる佐久間章先生がデボーションの恵みについて語ってくださいました。私の講義のタイトルは「バイブル・エンゲージメントーみことば生活への招きー」でした。

 講義では、旧約聖書のイスラエルの民がいかに聖書と関わっていたか、その民の姿から私たちは何を考える必要があるのかということを中心にお話ししましたが、その概要は以下のようなものです。
 まず取り上げたのは、イスラエルの民は、十戒を初めとする神のことばをいただいていた特別な民でありながら、指導者たちや民の生活は神のことばから離れてしまっていた現実があったということです。聖書を読んでいくと、人々が周囲の民の偶像崇拝にならった姿が克明に記されていますし、道徳的に堕落していった様子がはっきりわかります。
 確かに現代のように一般の人たちが聖書のことばを手に取って読むことはできない時代でした。手で書き写したものを、読むことができた人が少しはいたようです。また、定期的に人々が聖書の朗読を聞く機会が備えられてはいたようですし、聖書のことばに従って生きるように励ましていた指導者がいました。しかし、そのような指導者がいなくなると、元の偶像礼拝や堕落した生活に戻ってしまうイスラエル人の姿があります。
 それでも、人々が聖書の朗読を聞いて、悔い改め、人々の生活が変えられた出来事がありました。ヨシヤ王の時代(紀元前7 世紀)に神殿で律法の書が発見され、指導者たちや一般の民も聖書の朗読を聞き、聖書に従うことを誓い、さらに偶像を取り除きました。またバビロン捕囚からの帰還後の時代(紀元前 5 世紀)に学者エズラによる律法の書朗読とその解き明かしによって、人々は聖書の言っていることをよく理解し、罪を悲しみ、新たな思いで神を礼拝しました。
 また、旧約聖書の人物たちの中には、聖書のみことばを愛し、みことばに従って生きることの大切さを詩で表現する人たちもいました(詩篇作者たち)。また、預言者たちのことばから、彼らが聖書のみことばを読んでいたことがよくわかります。
 それにしても、全体としてイスラエルの民が歴史を通して、神のことばに背き、神を悲しませる生き方に陥ったのはなぜなのか考えさせられます。確かに聖書(律法の書)が神から与えられたことばであり、生きるためになくてならないものだとは知っていましたが、実際に聖書のみことばから教えられる機会は限られていました。

 現代、印刷技術、インターネット技術がこれほどに発達した時代に生きる私たちは、神ご自身が明らかにされたご自身の思い、願い、計画を毎日、どんな時にも読んだり、聞いたりすることができ、また毎週の礼拝などでみことばの解き明かしを通して教えられています。なんと幸いなことでしょうか。私たちは様々な複雑な課題に囲まれて生きています。その中で、その聖書のみことばとしっかり取り組み(「バイブル・エンゲージメント」)、そこから神の民としてどう生きるべきかを探り、教えられて、実際に生きるという「みことば生活」を送る日々でありたいと願うのです。

~みことばの光2023年2月号より~

稲垣博史(聖書同盟理事長)

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